開かれた遺言。わたしは家族以外にも生きたことを知ってほしい。
ここ最近、いつもの3倍のアクセスがありました。ありがとうございます。
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読まれるってうれしいですね。
ぜひみなさんにもブログをおススメします。なぜなら、
ブログを見てほしい人は、家族だけじゃなかった。
じぶんで忘れたくないから書く。誰かに知ってほしいから書く。わたしの理由はその2つです。その誰かとは、家族だとずっと思ってきました。だけど、それならブログというかたちで公開する必要はない。日記に書きためておけば、いつか家族が見つけてくれる。
ブログの先は見えないけど、アクセス数のすぐ後ろに読者さんがいて。あの人の顔を思い浮かべる。家族以外のわたしを知らない人にも見てほしいからなんです。
なぜ家族以外にも見てほしいの?
考えたこと、悲しかったこと、忘れられない思い出、感動した本、びっくりしたこと、キレイな風景。ちょっと前なら、次の日、学校で会った友達に興奮ぎみにしか話すことしかできなかった思い。
だけど、今はシェアボタンひとつで、その場の雰囲気丸ごと、みんなにお知らせできる。気持ちは鮮度が大事。ピッチピチのイキのいいじぶんを友だちにすぐ教えられるなんて。
これを使わなきゃ、生きてて損! そんな風に思うようになりました。
生きた感情は、遺言になる。
大げさですが、遺言のようなものだとも思っています。ひとつひとつのできごとと一緒に思いを残す。そうすると、ちっぽけに思えたことも壮大なストーリーが背景にあったりして。
わたしはいつも「もし○○になってしまったら……」と最悪な想像をすることが多く、最大の最悪妄想は死んでしまうことです。書いていてもコワいけど、もし何かが起きたとき、たとえ寿命まで長生きしたとしても、この気持ちをすべて娘に伝えられない。
ブログを書いていることはいずれ話すだろうけど、(できれば私が死んだあとに)あぁ、お母さんってこんな人だったんだと娘が母としてのわたしではなく、母になる前のわたしも知ってくれたらうれしいなと思います。
それがわたしにできる、生きた遺言です。
生きる価値は、自分よりも長く生きる人のために。
人ひとりが生きるって、すさまじいこと。365日×何年かわからないけれど、寝て食べて恋して仕事してをくりかえす中に、優しさも悲しみもいっぱい詰まってる。それなのに、本人にとっては当たり前で、なんの価値もないと思っていたりするのがとてももったいない。
昨年、あるライターさんが亡くなりました。わたしは亡くなるまでその方を知りませんでした。でもその方の存在を知ってから、どうしても気になって、その方が残してきた膨大な気持ちの記録をすこしずつ読み返しています。
「書く」って、みんなが普段言葉にしない思いを、言葉にして共感してもらうことなんだ。
読むほどに、引き込まれていきます。日付があるから、わたしがこんな風だったとき、この方はこんなことを思っていたんだと、まるで一緒に生きてきたかのような気になります。
なくなってしまうのは悲しいことだけど、人が生きることの価値は、自分よりも長く生きる人が、できるだけ素直に生きられるように気持ちを残すこと。
そんな気がしています。
よかったら、あなたの生きた証を残してください。
たまに、「ブログを続けていてすごいねぇ、わたしも見習わなきゃ」と言われることがあります。そんな人は「わたしには書くことがない。時間がない」と決まって言います。
たしかに時間はないかもしれません。わたしもこのところ、更新ペースが落ちてきました。(ひとつに時間をかけている、というのもあります)でも、やっぱりもったいないです。ブログを書く時間の他にしていることがあって、それは残さないとどんどん忘れていく。自分ですら忘れていく。
あなたにとってはどうでもいい当たり前ものことでも、他の人には価値があると思うんです。なぜなら、他の人は同じ経験はしていないけれど、同じような気持ちになったことはあるはずだから。
人は共感したときに、強くなれる。
だから、写真一枚と一行でもいい。できごとだけじゃなく、思いも。今は非公開でも、いずれ誰かに見てもらえたら、かならず価値のあるものになります。今日はブログ論を熱く語りました。まずは自分へ向けて。
ではまた。