二人目はご縁があれば。子どもを産むか産まないか問題。
娘より一ヶ月前に産まれた男の子と会いました。その子のお母さんもわたしの同級生です。気にしいなわたしは、その友だちに会うといつもラクな気持ちになれます。今日は、この言葉に救われました。
「二人目はご縁があれば、ね」
産みたいけど……。
正直に言うと、娘が産まれた直後から二人目はどうしようと誰に聞かれるわけでもないのに、一人モンモンと考えていました。なぜなのかはわかりません。いえ、ウソです。産みたいからです。もうはっきりと言います。
だけど「産みたい」というこの気持ちをはっきり口に出せないのには、いくつか理由があります。お金、時間、年齢、それと母の言葉。「子どもは一人でいいよ」え……。娘が産まれて2週間くらいの頃だったと思います。
わたしは三人きょうだいの長女です。昔冗談で、「わたし一人にすればよかったのにぃ」と母に言ったことがありますが、今回は冗談っぽくない。弟や妹を産みたくなかったとかそういうことではなく、私の体のことや、三人育てたからわかる苦労をすべてまとめて、その言葉になったのだと思うと、「いいや、わたしは産みたい!」と返すこともできず、「そうやね」と今のところ、同意していることになっています。
産めば楽しい、わけじゃない。
実際、子育てとは、東京の大学に行ったときと同じで、行けばたのしい世界が待っているワケではありませんでした。産めばCMでみるようなキラキラ生活が約束されているなんて、そんな簡単な話はない。
寝たいときに眠れない、食べたいときに食べられない、集中しているときに中断される。それもひっくるめて子育てです。テレビやCMは、楽しい部分のキリトリでしかない。私はまだそんなことにも気づいていませんでした。
実際、母がわたしにそう言ったときは、体も一番キツイ時で、二人目なんて到底考えられないとも思っていました。
母になれたこと、子育てをさせてもらってること、その感謝やありがたみは子ども一人でも充分味わえます。だから、母はムリすることないよ、と私のために言ってくれているのです。それですべて丸くおさまるなら、私もそれでいい。だから旦那さんにそう伝えてみた。だけど、彼ははっきりとは言わず、納得はしていませんでした。
上の子にさみしい思いをさせたくない。
母の言葉のウラには「上の子にガマンをさせるのがかわいそう」というのが隠されています。下の子のベビーカーを押すお母さんのもう片方の手は、荷物でふさがれていて、上の子が後ろから一人で着いていくような姿をスーパーで見かけるたび、「かわいそう、かわいそう」と言ってました。
おそらく、自分が長女である私にそうしていたという罪悪感からでしょう。私自身はさみしかったという記憶はありませんが、小学生の頃、弟の頭をたたいたり、妹の足をつねったりしていたのは、「母を取られた」という思いだったのかも、と最近感じるようになりました。
それでも産めるものなら産みたい。その産めるものなら、というのは最初にでてきたお金、時間、仕事、そして上の子問題、それがすべて解決すればという話。そしてそれがすべて解決する日なんて、ない。
たくさんの子を育てたお母さんはみんな「なんとかなるよ」と言います。それも正しいんでしょう。でも、そのなんとかっていうのは、何かを犠牲にすればという言葉も含まれていて、私はその犠牲はなんなのか、はっきりさせないと先に進めません。だけど、どうやってはっきりさせるのか。考えるとしんどくて……。
子どもの悩みが解決する日は、きっと……ない。
そんな解決策のでない気持ちをふうっと風に乗せてくれたのが、友だちの言葉でした。
「ご縁があれば、ね」
そう、産むのか産まないのかはっきり決めなくていい。今はそれくらいの気持ちでいい。うっかりできてしまったら、母もそれはそれで張り切るかもしれない(ええ、とか言いながらむしろ、喜ぶかも)。
そういえばこの間電話で、「最近、食欲があるんよね」と話したら「二人目やない!?」と言ってきた。いやいや、ないからと返したけれど、そんな風に切り返されるとは思ってなく、驚いた。
子どもは割と放任主義だったのに、孫の心配ばかりしている母の意外な一面にも驚いている。子育てには、すくなからず協力者が必要で、そのトップバッターはやはり母なのかもしれないと思うと、旦那さんには申し訳ないが、それなら母が元気なうちにと思ってしまう私なのでした。
この悩みが解決する日はきっとこなくて、やってみるしかないのだと気づいてはいます。それでも誰にも話せずモンモンとしてしまうとき、友だちの言葉を思い出すことにします。ありがとう。
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