まいにちワンダーランド

~過去をはき出し光に変える毒出しエッセイ~森中あみ

帝王切開後の頭痛、対処方法はこれ! 産後12日目にしてやっと書けるよ。

やっとブログが書けます。

いやぁ、つらかった!!!

つらかったランキングをあげると
1.硬膜外麻酔からくる頭痛(産後5日目まで)
2.術後3時間水が飲めないこと
3つあげようと思ったけど、この2つかな。あとは、もう忘れた。

終わりよければすべてよし、開けない夜はないというけれど、「1週間で頭痛はぜったいに取れる」と先生は言うけれど、頭を上げるだけでトンカチでガーン、ガーーーーンとかち割られるような痛みは1秒でもはやく取っていただきたいんですけど! 水分を取ってと言われますが、徒歩2分の自販機にさえ歩いていけないんですけど! ごはんも頭上げられないから、ベッドのリクライニングをギリギリでとめて傾斜30度くらいで、なんだこの体制は、と思いながら食べてたんですけど! 途中から四つん這い(背骨と頭をまっすぐにする)姿勢を取ったら、すこしラクだからごはんもベッドで四つん這いで食べたり。

娘の面会は車いすに乗ってうなだれながら。車いすのスピードによる揺れもつらい・・・ ぐわん、ぐわんと頭が揺れる。娘の顔を見ていたいけど、3分と頭をあげていられない。「もう、いいんですか?」と看護師さんに言われて、「はい・・・」と声に出せずうなづいた、あの瞬間つらかった。だって、もう早く横にならないと頭が破裂しそうなくらい痛いんだもん。

でね、これの対処方法で最善の方法は「OS-1」だとわかりました。産後5日目にしてベテラン看護師さんがさらっと教えてくれました。アクエリアスポカリスエットもいいけれど、と。もう、これは帝王切開、麻酔を予定している妊婦さんにはぜひ教えたい!!! 頭痛は全員に訪れるものではないらしいけれど、もし現れたら、すぐにOS-1を!!! 看護師さんに買いに行ってもらってください。自分では立って歩けないからムリ。もしくはご家族にもってきてもらって。ほんとに。1日でもはやく開けたほうがいいもん。

2つ目の3時間水分が飲めないのは、もうどうしようもなく、時が来るのを待つしかないけれど、看護師さんにつらいと訴えたら、「口をゆすぐだけなら」と横向きで水分を口に含み、ペッと出させてくれました。口の渇きがうるおうだけでも違う。3時間後に水が飲めたときのあの快感。もう、幸せで「うれしい・・・」と100%でつぶやいていました。

出産はどうやっても痛いことがわかりました。私の場合は、おなかの痛みより頭の痛み。

こうやってブログが書けること、立って歩けること、好きな時に水が飲めることがこんなに素晴らしいことだなんて。

子どもは、こうやって親に教えてくれるのね。

かなりスパルタだね……(泣)

出産記録はインスタに手書きで載せてます。よかったらご覧ください♡♡♡

ちなみに、術後のおなかの痛みはチクチク続きます。1日1回のロキソニンでなんとか対応。次は搾乳のことを書こうかな~、あとはNICUのこととか。いろいろ~

♥

 

 

年賀状に子どもの写真なんてゼッタイにいや! だった私の末路。

独身のころから、結婚して数年経っても年賀状やSNSならアイコンに子どもを載せる人を軽蔑していた。

「自分の名前で出す年賀状に、子どもだけの写真なんて、頭おかしい! 私はゼッタイにそんなことしない!」と福岡の居酒屋でおなじく独身の友人に息巻いていた自分のことは、年賀状の季節になるとこれからも思い出すんだろう。

ごめんなさい、の気持ちとともに。

今年の森中家の年賀状はこれです。



ほんま、ごめんなさい……。

誰にあやまっとんねん!

子どもしか載せる写真がないっていうのも、どうかと思いますが、今はほんとにそうなんです。生活のリズムも、頭の中も。

「そして、バトンは渡された」の一節に、「愛する対象があるのは幸せなこと」とあります。そうなんだろうな。

一人目の長女を産んだとき、「もう、この痛みは二度と経験したくない」と思った。それなのに、また子どもを作った。神さまは願いを聞いてくれて、陣痛ではなく帝王切開の痛みを経験させてくれるみたい。(帝王切開は痛くないと思っていた私からもごめんなさいと言っておこう。誰にや)

明日、次女がこの世に誕生します。

こんなにも準備万端の出産って、あるんだなあと感動しています。産科の先生はもちろん、助産師さん、看護師さん、麻酔科の先生、脳外科の先生、家族も含め、こんなにも娘の出産に関わって、心配して、サポートしてくれて、囲まれて出産するなんて。

人間に産まれたワケは「経験するため」だ。としみじみ感じている。「経膣分娩も、帝王切開もどっちも経験できるなんて」と夫に言ったら、「よくそんなにポジティブに考えられるね」と返ってきたが、本当にそう思う。これから、どっちも経験した人の立場になって発言できるって、ありがたい。

子どもの写真を年賀状にする人の気持ちも、子どもができたから私は認められた。

私の人生のテーマ(目標)は、誰のことも否定しない、もちろん自分も、なので、そのためにこれからもたくさん経験していきます。

運良く、2021年は運気最高潮らしいので、気持ちを出すこともめんどくさがらず、私なりのやり方で生きて、書いていこうと思います。

新年の抱負とあした出産のご報告。

 

2020→2021

1週間後には地球の空気を肺に出し入れしているはずのわが子と二人、病室にいる。

フシギナ感覚。

私は踊り出したくなるような曲が好きなはずなのに、ピアノ伴奏をバックミュージックに、これを書いている。

フシギナ感覚。

今年一番の感謝は、今、ここまでかと思えるほど落ち着いた感覚になれたこと。いつもの年越しを夫と娘と過ごせないことに不運を感じつつ、昨日病室に入ったが、翌日の大晦日の今、真逆の幸運を感じている。

二人目の赤ちゃんができたこと、家族やお金、家があることの当たり前じゃない幸せをあらかた手帳に書き出したところで、一人でいられるこの時間が、物書きとして、いや人には一番大事なんじゃないかとじんわり思えている。

なんだかフワフワしている。

フシギナ感覚。

人はないものねだりが好きだなぁとよく思う。でも、もうそれは2020年に置いていく。いつだって「自分一人だけの静寂な時間」。私が神にねだりたいのは、それだけ。

心理学や占いが好きなのは、自分に戻るための考え方を探していたからだったのか。新年になればまた、おみくじ、運勢がより一層気になるが、それはそれとして、来年はこの今の感覚、「中心」がブレない私でいたい。



↑今年2020年の抱負、叶いました[emoji:B68]

お母さんは何にする?(プレゼント)

「おかあさんは、なににする?」

冬休みにはいった娘と手をつなぎ、2週間後に空気を吸う予定の娘をおなかに抱えて、マンションを出ようとすると、エントランスで娘が言った。

私のクリスマスプレゼントはどうするのか、と。

2週間くらい前にも、そんなこと聞かれたけれど本当に思いつかなくて、そりゃCHANELのクリームとか? リップとか? 香水とか? あるけど? 娘に聞かれてそれってさ。言えばよかったのかな。

なんか自分が俗っぽくてイヤだった。

俗っぽいってねぇ。もっと神聖な願いが自分から出てくることを期待してるみたいね。

夜になって、手帳にも聞かれた。「サンタさんからクリスマスプレゼントをもらえるとして、何が欲しいですか?」

「赤ちゃんの水頭症が治って、フツーの子と同じように生活できること」

私が欲しいプレゼントは、それです。

健康第一。

健康な体。

当たり前じゃないことを感じられることに感謝します。

娘には明日、お菓子を買ってもらうことにする。じぶんの財布からお金を出したいみたい。4歳にして、素晴らしい感覚。

それを、子どもだからとないことにせず、親はやってあげてなんぼ、なんて押し付けず、素直に受け取ろう。

夫にもその話をしたら、「そうしよう」と。

ありがとう。

子どもたち。

ありがとう。

家族。

 

私はわたしに、あなたは。

私はわたしに書きたい。

「公開」前提の日記なんて、なんか変だなぁ。筆が重くなるのは、そのせいか。

今日から臨月。赤ちゃんは顔を横に向けて、見せてくれなかったよ。頭が重いから仕方ないのか。

かわいそうっていう言い方は、誰に対してのものなの? それも結局、自分でさ。相手の気持ちをわかったフリして、自分が傷ついている。

人生はいつだって、じぶん本意。

それでいいんじゃないかと思う。京都府医大にくふと気持ちがいい。御所が隣にあるからかな。

 

 

 

自信があるからやる、自信がないからやらない。なんだ、それは。

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誰かの答えを求め続けている限り、自信を持つことはない。そもそも自信なんて、あるのかないのかの話ではなく、あってもなくてもどっちでもいいのではないか。

自信があるからやる、自信がないからやらない。なんだ、それは。

自己肯定感をすごくわかりやすく、見ていて笑えるエピソードも交えつつ説明している動画を見た。それを見たから今、これを書いている。

たいしたことない、よくがんばった、運がいい。言葉をポジティブに変換したり、朝起きて鏡の前でガッツポーズをするだけで脳は、「私はすばらしい」と錯覚してくれる、と私は解釈した。

「自信」をテーマにした記事はもう何度も何度も書いていて、もうイヤなのにまた書いてしまうし、求めてしまう。

これを私の専売特許にしていくしかないのかも。持とうとするのではなく、なくてもいい。そもそも、やりたいことをやらない理由を「自信」という目に見えないもののせいにして、やらない安全地帯で生きることをやめよう。

すべては喜びなのだとしたら、私以外の人は私が私を感じるために存在している。

「すべては喜びだ」という真実を受け入れられないのは、正解を探して努力して手に入れる生きる方の喜びに未練があるからだ。

ただ、ずっとそんな生き方に「何かが違う」と違和感を感じてきたのだから、そこにさらなる正解を求めるのではなく、理論としては理解できない(まだ正解だと言われることに快感を覚えるから)けれど、この違和感や腑に落ちない感じもすべてを包括する真理が「すべては喜び」なのだと考えられるようになっている。

これも娘のおかげで、(おなかの中にいる子の性別はでてくるまではっきりしないけれど、今のところ女の子なので娘とする)いまだにグルグルしている私を見かねて、こういうことだよと身をもって教えてくれたのだと、我が娘たちは、よく見ていてくれると、まさに、これぞ神だと思わざるを得ない。

ありがとう。

私に経験させてくれて。

私以外の人は、私がわたしを感じるために存在している。

2020年10月11日